旅行

今の大仏様はまさかの二代目!?鎌倉の大仏の歴史書をシンプルにまとめた

鎌倉大仏 歴史
鎌倉時代から現在に至るまで、同じ場所で時代の流れを見続けてきた鎌倉大仏。
鎌倉の大仏はいつ、誰の発案で作られたのでしょうか。

歴史を紐解いてみました。

スポンサーリンク

※ 当サイトではアフィリエイト広告を利用しています

鎌倉の大仏の歴史を紐解いた

いきなりですが、鎌倉大仏に関する歴史的資料はほとんど現存していません。

いつだれがなんのために鎌倉大仏を建立したのか。
という直接的なことが記載された資料にいたっては皆無です。

とはいえ、大仏に関するヒントが載った資料が全く残っていないわけでもなく、有名で目立つ大仏ゆえに歴史書でしれっと紹介されたりもしています。

そこで各歴史書に記載の内容をもとに、鎌倉大仏の年表をまとめました。

鎌倉大仏に関する歴史資料を読んでみた

鎌倉大仏に関する話がでてくる歴史書は10種類ほどあり、
そのうち、歴史年表に関する記載がある歴史書は、
吾妻鏡
太平記
鎌倉物語
鎌倉大日記
の4つとなります。

それぞれの歴史書の大仏に関する記載文を読んでみました。

吾妻鏡

まずは吾妻鏡(あずまかがみ)。
鎌倉時代に作成された歴史書です。
鎌倉幕府を開いた初代将軍・源頼朝の挙兵(1180年)から第6代将軍・宗尊親王の退位(1266年)までの鎌倉幕府に関する内容が記載されています。

鎌倉大仏に関する最も古い文献がこの吾妻鏡。

1238年に大仏殿建立のための勧進※が行われたこと、
1243年に大仏の開眼供養が行われたこと、
1252年に大仏の鋳造を開始したこと
の3点が書かれています。
※勧進とは、寺社・仏像の建立・修繕などのために寄付を募ることです。

歴史書って聞くとハードル高そうですが、吾妻鏡は日記風な文体で書かれています。
「〇月×日。晴れ。」
とか書かれているんですよ。
意外と読みやすかった。

3点の該当箇所(灰色枠)とその意訳(黄色枠)は以下の通り。

嘉禎四年(1238)三月廿三日戊戌。雨降。~略~。今日。相摸國深澤里大佛堂事始也。僧淨光令勸進尊卑緇素。
「嘉禎四年(1238)三月二十三日戊戌。雨。(大仏と無関係なので省略)。
今日、相摸國(鎌倉のこと)の深沢の里(大仏の所在地)で大仏のお堂の着工式が始まりました
僧の浄光さんが身分の上下や俗人・出家人に係らず勧進(寄付を募ること)するそうです。」

1238年に、鎌倉の大仏殿建立のための勧進が始められたことが分かります。
実働部隊は僧侶の浄光さんです。
彼の名は後でちょいちょい出てきますので覚えておきましょう。

寛元々年(1243)六月大十六日辛酉。未刻小雨雷電。深澤村建立一宇精舎。安八丈餘阿弥陀像。今日展供養。導師卿僧正良信。讃衆十人。勸進聖人淨光房。此六年之間。勸進都鄙。
「寛元々年(1243)六月大十六日辛酉。午後2時頃、小雨、雷あり。
深沢村(大仏の所在地)に一軒のお寺を建立して、八丈(24m)ほどの阿弥陀像を造りました。
今日開眼供養式典をしました。

(供養の)指導僧は、大蔵卿僧正良信です。お供の坊さんは10人いました。
勧進(寄付を募ること)した僧の浄光さんは、この6年の間、都も地方も勧進しました。」

僧の浄光さん、有言実行で6年間勧進を頑張ったんですね!
苦労が報われて1243年に無事大仏の開眼供養が執り行われました。

建長四年(1252)八月小十七日己巳。晴。~略~。今日當彼岸第七日。深澤里奉鑄始金銅八丈釋迦如來像。
「建長四年(1252)八月小十七日己巳。晴れ。(大仏と無関係なので省略)。
今日はお彼岸の七日目です。深沢の里(大仏の所在地)に
金銅の八丈の釈迦如来像を鋳始めました。」

1252年に金銅の大仏が作られ始めたという内容です。
あれれ~、なんか変だぞ~?(名探偵小学生風)
僧の浄光さんが頑張った大仏はいずこ??

これらの記載から大仏は2回建立されており、
■浄光さんが頑張り、1243年に開眼供養した大仏は初代大仏
■1252年の金銅の大仏は2代目大仏
だと考えられています。

太平記

続いて太平記(たいへいき)。
後醍醐天皇の倒幕運動から鎌倉幕府の滅亡、建武の新政、足利尊氏と天皇の対立、南北朝の内乱までを描いています。
ひらがなが入ってくるので吾妻鏡より読みやすい。

大仏に関する箇所とその意訳は以下の通り。

八月三日鎌倉を打つ立つとぞ聞えける。されども、にはかに大風吹いて、家々を破損しける間、軍勢ども五百余人、大仏殿の中へ逃げ入りて、身を縮めて居たりけるが、大仏殿の棟木微塵に折れて倒れける間、つまり居たたる兵ども五百余人はたちまちに打ち殺されけるこそ無慙なれ。
「(軍勢が)八月三日に鎌倉を出立しようとしたけども、突然大風が吹きました。
(台風が)家々を倒壊させている間、軍勢500人あまりは(大風を避けるために)大仏殿に逃げ込んで怯えていましたが、大仏殿を支える柱が折れてしまい倒壊してしまいます
つまり、大仏殿に逃げ込んでいた兵たち500人あまりは大仏殿の下敷きになって圧死してしまい無残です。」

当時の鎌倉大仏には少なくとも500人規模が入れる大きな大仏殿があったことになります。しかし台風で大仏殿が倒壊したという記述です。
話がえぐい…。巻き込まれた兵士さん無残な…。

鎌倉物語(鎌倉名勝記とも呼ぶ)

スポンサーリンク

鎌倉物語は1659(万治二)年に刊行されました。作者は安田十兵衛です。
鎌倉とその周辺の神社仏閣などの観光地情報を、『吾妻鏡』『平家物語』『太平記』『年代記』などから引用しつつ紹介するといった内容です。
鎌倉版るるぶといった感じ。

該当箇所とその意訳は以下の通り。

1、東鏡、嘉禎四年三月廿三日、深沢の里に大佛を建立せしむる事、はじめ僧浄光といふ者、尊卑勧進せしめ、此えい作をくわだつる、御くしのめくり八丈とあり、義経将軍の代、又おくに阿弥陀の木像とあり。
「1、東鏡(吾妻鏡のこと)、嘉禎四年三月廿三日、深沢の里(大仏の所在地)に大仏を建立させるとの事、建立にあたって僧の浄光さんという人が、金持ちからも貧乏人からも勧進(寄付を募ること)して奔走しています。
大きさ八丈で、義経将軍の代には奥に阿弥陀の木像があったそうです。」

ほぼ上述の吾妻鏡と同じ内容です。
みんな大好き「浄光さん」ももちろん出てきます。

2代目大仏は1252年に建立されていることから、この鎌倉物語が刊行された1659年にはすでに浄光さんが頑張った初代大仏は無くなっています。

鎌倉物語の新情報として、初代大仏が木像だったことが分かります。
今現存している大仏は青銅製です。

鎌倉大日記

鎌倉大日記(かまくらおおにっき)。
武家に関係する出来事が記録されています。作者不詳です。

明応四年八月十五日大地震洪水鎌倉由比濱海水至千度。檀水勢大佛殿破堂舎屋溺死人二百余。
「明応四年八月十五日に大地震と洪水があり、鎌倉を千度の海水が襲います。
水の勢いで大仏殿は倒壊し、200人余りが溺死しました。」

太平記の台風による大仏殿倒壊の後、大仏殿が洪水により再度倒壊したことが分かります。

ここまでのまとめ

吾妻鏡によると、1243年と1252年の2回大仏が建立されたことになります。
その他の文献には鎌倉大仏建立の話がないことから、現在残っている大仏は2代目大仏となります。

初代大仏が消失した理由は関連する資料が残っておらず、謎に包まれています。
おそらく初代大仏は木像だったため、落雷などで焼失したか、大仏殿同様に台風などで崩壊したのだと思います。

また、大仏建立当時は、500人以上は少なくとも入れる大仏殿が建っていました。
しかし、台風や洪水により2度倒壊しています。
その後大仏殿は再建されなかったため、今でも鎌倉の大仏は青空の下で鎮座されています。

大仏に関する資料はほぼ上の歴史資料でほぼ全てです。
ほとんど残っていないため、
大仏がなんのために作られたのか?
誰の指示なのか?
浄光さんとは何者なのか?
といった詳細は全く分かっていません。

海外の歴史資料

せっかくなので海外にも目を向けます。

16世紀ころ、世界では東インド会社を始めとした大航海時代が始まります。
鎌倉にもスペイン、オランダ、ポルトガル、イギリスなどから貿易商が遠路はるばる訪れています。

そのときの諸外国の航海日誌などにも
「鎌倉の大仏はbeautifulだぜ!」
といった記載があったことが分かっています。

中には、「我々一行のある者は大仏胎内に入って咳をしたり大声を出したりしたが、それが恐ろしく大きな響きをした」といった記載があります。
今でも大仏内部に一般人が参拝できるのですが、16世紀の当時からすでに大仏内部を拝観できていたんですね。
鎌倉大仏の内部の話はこちらにまとめています。
鎌倉大仏の胎内めぐりをしてきました!中に入るときの料金や内部構造など

鎌倉大仏の作り方を図解!大仏は鋳造法で作られました

鎌倉大仏の歴史を年表にまとめたよ

鎌倉大仏の歴史資料を基にした年表

上でご紹介してきた内容を年表にまとめました。
「」は出典です。

ついでに最近の出来事も載せています。
(最近といっても昭和以降ですが…。)

1238年(嘉禎4年)
  僧の浄光さんが大仏殿建立のための勧進をスタート。「吾妻鏡」「鎌倉物語」
1243年(寛元元年)
  初代大仏(木造)の開眼供養が執り行われる。「吾妻鏡」
12??年
  初代大仏が歴史の闇に葬られる(資料なしのため原因不明)
1252年(建長4年)
  二代目大仏(金銅)の鋳造開始。「吾妻鏡」
1335年(建武2年)
  大仏殿が大風により倒壊。「太平記」
13??~14??年
  大仏殿再建。(資料なし)
1495年(明応4年)
  大仏殿が地震と津波で再び倒壊。「鎌倉大日記」

1958年(昭和33年) 鎌倉大仏が国宝に指定
1959年(昭和34年) 昭和の大修理
2000年(平成12年) 境内の発掘調査実施
2004年(平成16年) 境内一帯が「鎌倉大仏殿跡」の名称で国の史跡に指定
2016年(平成28年) 平成の大修理

最近(昭和以降)の出来事について

上の年表に載せた「最近の出来事」の補足説明です。

2000年発掘調査実施

大仏に関する資料のあまりの少なさから、
「それなら実際に測定してみよう」
となり、2000年から1年かけて発掘調査が行われています。

そのときの調査で、大仏殿の痕跡が見つかっており、歴史資料は正しかったことが証明されました。
さらに、大仏殿の2度目の倒壊後に再建された形跡はなかったそうですよ。

1959年昭和の大修理

大仏は大仏殿倒壊後、青空の下で露座し続けています。
そのため、酸性雨や鳥の糞などにより損傷が激しくなっていました。
そこで昭和34年から36年まで昭和の大修理を実施しています。

昭和の大修理では、
首周りを強化プラスチックで補強したり、
体重を調べるために大仏をジャッキであげて体重計を差し込んで体重測定したり
などもしています。
これらの詳細はこちらをご覧ください。
鎌倉大仏の胎内めぐりをしてきました!中に入るときの料金や内部構造など

鎌倉や奈良の大仏の高さや重さは?いろいろな物と大きさを比較した結果

まとめ

現存する鎌倉大仏は1252年に製造開始された二代目ということが分かりました。
二代目大仏も、およそ800年近く鎌倉にいることになります。
しかも1495年に津波で大仏殿が倒壊した後はずっと屋根なし生活です。
仏の寛大さがないと続けられない芸当ですよね。なむ…。

蛇足ですが、初代鎌倉大仏が生まれた1238年当時の有名な出来事といえば、
1232年に御成敗式目が制定されています。
中学の歴史の教科書に載ってましたね。懐かしい。

御成敗式目は鎌倉時代、すなわち武士の時代における武士のための法律です。
それが制定されたのが1232年。
その6年後の1238年に初代大仏建立がスタートしたんですね。

三代執権の北条泰時により法律が明文化され、これから武士の新時代がスタート!
というときに生まれた大仏さん。
2代目に意思を託して現代まで見守り続けてくれています。世の酸いも甘いもご存知です。

おばあちゃんの知恵袋のように悩みを解決してくれますね!

スポンサーリンク
宿泊予約なら「ゆこゆこネット」!

せっかく旅行するなら安くお得に済ませたいですよね。
そんなときにお勧めな予約サイトが「ゆこゆこネット」。

1泊2食付の格安プランが満載で、ゆこゆこ限定の特典や1万円以下のお得なプランも多数掲載されています。

私も、「温泉宿にゆったり安く泊まりたい!」
といったときなどによくゆこゆこネットを利用しています。


1万円で満足度の高い温泉宿満載!